恵那ライオンズクラブの演奏の際、
プロフィールを3パターン提出しました。

一つ目は音楽歴を短くまとめたもの。
二つ目は自分の活動全般の内容を短くまとめたもの。
三つ目は、自分が病気をした中で二胡と出会い、
二胡で積んだ経歴と、どういう思いでどんな活動をしているか、をまとめた長めのバージョン。

当日、3つ目を皆様に配布してくださったようで、
読んで下さった方々が「がんでステージⅣだったのに、よくぞここまで元気になられ、活動されて…!」とお声をかけてくださいました。
「僕の父も友人も、ステージⅣから生きられなかった。あなたはどうか、これからも元気でいてくださいよ!」と強く声をかけて下さった方もおりました。

そう言っていただいて、温かいお気持ちに感謝すると同時に、改めて自分の命が今あることが当たり前ではないことを再認識します。

ここで私が言う「命が今あるのが当たり前ではない」は、「ステージⅣから命拾いしたこと」ではありません。
「命をいただき、この世に生まれ落ちたことそのものが当たり前ではない」という意味です。

よくメディア等でも「命拾いしたこと」を奇跡のように扱ってしまうことがあります。
そして余命を宣告されたりすると、自分にもその奇跡が訪れることを願いますが、
むしろ私が命拾いしたのは、本当の奇跡は命拾いすることではなく、“今ある当たり前の(命の)瞬間”が奇跡だったことに気付いたからだと思っています。

余命がどれだけだとか、病気だとか健康だとかは関係なく、今この瞬間にいつだって尊い命が与えられ、それを維持していくのに必要な恩恵が存分に与えられている。

当たり前を当たり前と思わず、今与えられている命に謙虚に、命尽きるその瞬間まで精一杯生き切る、
余命と向き合う中でそう自分を定め、一瞬一瞬を精一杯生きた結果、その一瞬が積み重なり、気付けば最後の手術から16年、今日まで生かさせていただきました。

看護師だった時に看取った患者さんも少なからずいますし、母も悪性リンパ腫で亡くなりました。
でもその方達は「(命拾いするような)奇跡」が起きなかったのではなく、与えられた奇跡の命を生き切った方達なのだと私は思っています。
今でも私の中には、その方達の輝いていた命の瞬間が、キラキラ眩しく残っています。